みなさまこんにちは。残すところあと3回となりました女性の人間力アップ講座!12回目は「心の清らかさ」です。
さぁ、ここで突然ですが、胸に手を当てて、ちょっと自分に問いかけてみてください。
自分は心が清い人間だと思いますか? それとも違うと思いますか?
この答えによって、みなさんが心の清い人のベースがあるかどうかがわかちゃいます〜
森信三先生は心の清らかさは「人間の真のねうち」とおっしゃっています。
また、穢れを嫌う神様に愛されるためには、清らかな心を目指すのは、必須中の必須ですよね!
ではでは、心の清らかな人とそうではない人の違い、何が大切なのかを信三先生に教えていただきましょう。
(ちょっと補足)このブログ講座は
森信三先生著「女性のための修身教授録」の講義内容から抜粋して重要ポイントをお伝えしております。
心の清らかさは他人にはっきりわかる!
人と接していて、この人は心が綺麗、この人はちょっと。。。って何となく感じますよね。信三先生も「案外はっきりとわかる」とおっしゃっています。
他人の背中に痣があるとかないとか、やけどの傷があるとかないとかということは一緒にお風呂に入るでもないかぎり、容易にはわかりにくいことですが、
その人の心が綺麗であるかどうかということは、案外はっきりわかるものであります。
ではどうしてそれがわかるかと申しますと、結局それが、なんらかの意味で形の上に現れるからであります。
たとえば、書物の貸し借り。「貸して」といって、すぐに心から心よく貸してくれる人と、何も文句は言わないけれど、一瞬サッとちょっとだけだけど「えっ?」といった不快な気持ちが顔に出る人っていますよね。またあれこれ口実をつけて、結局貸してくれない、なんていうケースも。
ほんのちょっとしたものの貸し借り1つからも、その人の人柄、心のきれいさってバレバレなんですよね。
いやぁ、人間ってほんと些細なことにこそ、その人の人柄がみえますもんね笑
結局は
心の清らかさ=自己中心的な欲望のあるなし
であると信三先生、おっしゃっています。
そうそう、失敗した時にもその人らしさってめちゃくちゃ出ますね。
・人から問われる先に「ごめんなさいっ!」と自分から言う人
・「これどうなったの?」問われて初めて「ごめんなさい!」っていう人
・「これどうなったの?」と問われて、「あ、それはね。。」と言いながらごまかしたり、言い訳をする人
どの人が心が清いか、一目瞭然ですよね!
特に重大な時や窮地追い込まれた時の反応ほど、形の上で本性がはっきり現れる。結局人間の本性はごまかせない、ってことですね。(怖い怖い〜)
「心の清くない人」ほど、自分は「心が清い」と大いに勘違いしている
で、最初のみなさまへの問いかけ。自分の心は清いか、清くないか。ですが、答えはいかがでしたか?
ここで注意すべき事項は、大抵心の清くない人に限って、かえって自分の心が清くないとは思いわないということであります。
これに反して、心の清らかな人というものは、常に自分を反省していますから、いつも自分の心が濁って乱れようとするのを、恐れ慎んでいるのであります。
それゆえ、他人からは気づかない程度のわずかな心の濁りも、本人にはそれが非常に気になるのであります。
この解説として、信三先生、鏡を事例に挙げてくださっているんですが、日頃ピカピカに磨いている鏡だと、ちょっとした埃や手垢が付いたらとっても目立ちますよね。
でも、汚れて埃まみれの鏡には、そこに多少の埃や垢がついてもさほど目立たない。心の清らかさの自覚もこれと同じですよ、ということなんです。
確かに〜確かに〜。いつもながら信三先生のたとえは本当にわかりやすいですね。
さてさて、みなさまは他人から自分の考えを反対されたり、自分の悪口や陰口を言われた時にどのように反応されますか?
この反応でもはっきりと心の清らかさがわかっちゃうんです!
(心の清らかな人は…)
もちろん人間ですから、一瞬、不快な感じはいたしましょうが、「先方がそういうのも確かに無理はない」と反省するのであります。
そして、そのことは一瞬心の水面に触れはしましょうが、たちまちにして消え去って跡形もとどめないのでしょう。
(心が清らかでない人は…)
(悪口や反対などを聞くと)たちまちにして、むきになって反発し、それを素直に受け取ろうとはしないでしょう。
そこでまた、いつか折りでもあったら、この仕返しをしてやらねば気が収まらぬともなるわけです。
このように胸に一物が溶けずにいるわけですから、これを外から見ますとどうしても不透明で濁った感じを与えるわけであります。
いやぁ、これ、みなさまどうですか。自分のことも振り返りつつ、指摘したらムキになって自分を正当化する人っていますよぇ。もちろん、その思いって誰しも出てくるかと思うんですが、そこをグっと飲み込んで浄化できるか、思いをそのまま表面に出して、それを悶々と抱えるか。
そこに違いがでるという言葉。
なるほど納得ですし、こういう時こそ気をつけなきゃ〜なんて改めて自分自身を反省します。。
ではでは、心の清らかな人とそうではない人の違いはよくわかりました。
じゃあ、実際にそこを目指すにはどうしたらいいのでしょうか。
「自分の心は濁っている」と自覚することが、心の清らかさへの道
はい、信三先生のご指導です。
現在の自分の心を、そのまま清く正しいと許すことではなくて、むしろこれまでに人並みに自分も、正しくて清らかだと許してきたわが心を、さらに一段と深く掘り下げて、そこにこれまで気づかなったわが心の濁りを見出していく態度こそ、やがて人からこれを見る時、心清らかなる人といわれる所以でありましょう。
先の信三先生のご指導にもありましたが、自分はできていると思う人こそ、問題あり、とおっしゃっていましたよね。
清らかな心を目指すにはまずは自分ができている。という幻想は捨て去ること!
そして
常に自分の心が濁っていないか点検しながら、より清らかにするように努めること
なんですね。結局はすぐにできるものではなく、日ごろからの態度がすべて結果に反映される、ということですね〜。
いつもながらのご指導ですが、だからこそ、やっぱり大事なんだなぁ、ということを痛感させられます。
まとめ
ということで今回のテーマは「心の清らかさ」について森信三先生に教えていただきました。
ポイントとしては、
- 心の清らかさは、他人からはっきりわかる
- 自分で心が清らかだと思っている人ほどできていない。
- 心の清らかさを目指すには、まずは自分の心は濁っているという自覚を持つ
ということでございました。
なんでもそうですが、仕事でも周囲から尊敬されているプロフェッショナルの方々って、例外なく「自分はまだまだ」「できていない」といったことをおっしゃいますよね。
もちろん、誇りや自信も大切ですが、それに偏よらず、反対には、自分の至らなさを常に念頭に置いて、ここをなんとか克服しよう。という思いと行動の積み重ねが結局、その人自身の人格形成・心の清らかさにつながっている。
また、
いくら莫大な富を抱えようとも、大事業をしたとしても、出世したとしても、人間の最後の値打ちは結局は「心」
死んだ後に結局残るのは、その人の真心であり、すなわちその人の心の清らかさの他はない。
と最後に信三先生はおっしゃっています。
神様愛される人を目指すにも、この心の清らかさはとっても重要。どす黒い中身で神様と向き合うのは、神々に対してとても失礼だし、申し訳ないですもんね。。
神様に愛されるビジネス・生き方を実践していくにあたり、この清らかな心は特に目指さなくてはいけないこと。
自分の濁りを自覚して至らなさを感じつつ、でも誇りは持ちながら日々また精進してまいりましょう〜!!
ということで、今回はこのへんで。
次回のテーマは「報いを求めぬ心」。今回の「心の清らかさ」に通じるテーマでもありますね。
また信三先生に教えていただきましょう!
ではではまた次回!今回もお付き合いいただきありがとうございました!